勝林寺 人と暮らしの間にあるお寺

抱える想いのために 勝林寺の目指すグリーフケア

勝林寺の目指すグリーフケア

「グリーフケア」という言葉を聞いたことはありますでしょうか?住職である私自身も知ったのは最近のことです。お恥ずかしい話ですが、はじめて聞いた時は「グリーンケア」と聞き間違えて「森や新緑を見て気持ちが癒されることかな・・・・・・?」などと思ってしまいました。

そもそも「グリーフ(grief)」とは、直訳すると「喪失の悲嘆」を意味します。もう少しかみ砕いて言うなら、「大切な人やものを失うことによって生まれてくる、その人それぞれの反応や感情の過程のこと」を表す言葉です。

一般的には「死別による悲しみ」を指し示すことが多いですが、それだけでなく、「行きつけのお店が閉店した」、「付き合っている人と別れた」、「お財布を紛失した」などさまざまな喪失によって現れる身体や心の反応も「グリーフ」ということになります。

そもそも、喪失とは、単に立ち直ったり、乗り越えるものではありません。その喪失感や悲しみを見つめ、自分の中で抱えやすいかたちを探して生きるものです。過去は消すことはできません。その悲しみがあるからこそ今の自分がいる。それもまた紛れもない事実なのです。

だから、悲しみによって身体や心にどんな反応が起きてもおかしい事ではありません。「自分のありのままを大切にしていこう」という考え方。それがグリーフケアの根本にあります。

私は、このグリーフケアの学びに触れる中で、人にはそれぞれに抱える喪失があり、日々、その揺らぎの中で生きていること、そして自分自身もその中で生かされているということに気づきました。

私自身も障がいを持った子どもを授かった時、生まれてくるまでに抱いていた楽しい子育てのイメージから、一気に突き落とされるような大きな喪失感を経験しました。その悲嘆を経験し、日々、自己と向き合いながら、グリーフケアの学び(グリーフワーク)に触れることで、自分と同じような経験をした方たちと想いを共有する場所をつくりたいと思うようになりました。そこで、お寺という場のちからを活かした『お寺で障がいを持ったお子さんのご家族によりそうグリーフプロジェクト』を立ち上げ、現在計画を進めています。少しでもご興味をお持ちいただけたら、どうぞお気軽にお声がけください。

大切な人をなくした
人のための権利条約

01悲しんでもいい 落ち込んでもいい

「がんばらないと」「心配かけてはいけない」と気丈にふるまっているかもしれません。
でも時に自分の心の奥にある声に耳を傾けてみてください。悲しい時は悲しみ、落ちこむことがあるのも自然なことです。

02自分を許してもいい

「わたしが悪かったんだ」と自分を責めてどうしようもない時。「どうにもできないことがあったんだ」ということを認めてもよいのです。
自分を責めるのは、あなたにとって、その人の存在がそれほどまでに大事だった証です。

03考えない、思い出さないときもいい

死を直視しないのもまた自由です。辛いから考えたくない、思い出したくない。そんな時は、今、自分が打ち込めることに力をそそげばよいのです。考えられる時、思い出したい時に、そうすればよいのです。なくなった人はそんなあなたを責めないでしょうから。

04自分を大切に

「みんな大変だから」と思い、我慢することも尊いことです。でも自分がつぶれてしまうほどの我慢はどうでしょうか。大切なのはあなたが、あなたらしく生きてゆけること。自分自身を大切にすることに許しを与えてもよいのです。

05助けてもらうこと

「お互いさま」誰もがいつかは大切な人をなくし、苦しい時があります。
だから今、あなたが辛いのなら、支えてもらってよいのです。いつか、誰かにその恩を返したり、送っていけばよいのです。「助けて」は悪いことではありません。

06みんなちがって、それぞれにいい

同じことを前にしても、感じ方はちがいます。人それぞれであるということ。
どちらが重たくて、どちらが軽いということは本当はありません。
ただ「そう感じている」ということが真実なのです。感じるままに、ちがいをちがいのままに。

07自分の人生を歩んでいく

自分の人生を生きること。たのしい時間をもつこと。
時に、なくした人を忘れていること。それはなくした人を置いていくことではありません。
喪失した相手の存在と共に、あなたの人生を歩んでいくことはきっとできます。

障がいを持ったお子さんのご家族へ

勝林寺には、住職の息子であり、お寺の一員でもある「むっちゃん」がいます。むっちゃんは肢体不自由の障がいを持っています。むっちゃんが生まれたのは2013年のこと。生まれる前は楽しい子育てを想像しワクワクしていました。しかし、出産の際、分娩が上手くいかず無酸素状態に・・・・・・脳性麻痺を抱えながら誕生することになりました。

病院のNICUに緊急搬送されて命をとりとめたものの、何日もの間、たくさんの管につながれ、動くことも声を出すこともできませんでした。はじめて「あー」と声を出した、あの時のことは今でも忘れません。涙が出ました。

その後は毎日病室へ通い、退院後の看護を習いました。痰を吸い出したり、ミルクを鼻から胃へと通したカテーテルで飲ませたり・・・・・・慣れない看護を何度も練習しました。そして3ヵ月後・・・・・・いざ、退院となると不安でいっぱいでした。

私が一番辛かったのは公園を歩くこと。鼻に管を通したむっちゃんへの視線がどうしても気になってしまいます。それに、公園には、手をつないで歩いたり、ボール投げをしたりする親子がいて、それを見るのが本当に辛かった。「なぜ、自分の家族だけ・・・・・・」と、深く落ち込んでいました。

そんなグリーフ(喪失感)の中で、同じような状況にある方の話を聞いたり、今後の生活について訪問の看護師さんやNPO法人、区の保健師さんと相談することで気持ちが楽になっていく自分に気づきました。

こうした経験を活かし、このお寺で、主に0歳〜6歳くらいまでの障がいを持ったお子さんとその家族がよりそう場をつくりたいと考えています。

「障がい」とひとことに言っても、さまざまな障がいがあり、一人ひとり違います。その不安や悲しみをご家族だけで抱え込んでいらっしゃるならば、ぜひ一度、お寺をおたずねください。また、お近くにそういう方がいらしたらお寺をご紹介ください。私たちと一緒に、想いを分かち合う時間を過ごしてみませんか。

住職 窪田 充栄