勝林寺 人と暮らしの間にあるお寺

勝林寺としての禅宗と歴史

勝林寺はソメイヨシノの発祥地、染井(現駒込)のかたすみに位置し、東京都心部にありながらも、閑静な住宅地の中に佇むお寺。元和元年(西暦1615年)、臨済宗の寺院として創建された禅寺です。
臨済禅を大成させた白隠禅師は、生きとし生けるもの皆、本来生まれもって尊い仏であると説かれています。
勝林寺では禅に触れることで、「本来の自分」に気づく種まきをします。
昨今、「断捨離」という言葉がよく聞かれますが、禅の目的は何かを得ることではなく、そぎ落として「本来の自分」に気づいていくことです。
「それぞれの命をどう活かすのか?」
その答えは日常にあります。

萬年山 勝林寺

宗派
臨済宗 妙心寺派(禅宗)
本尊
木造釈迦如来坐像(平安時代前期)
豊島区有形文化財指定
開山
了堂宗歇(禅河弘済禅師)
開基
中川元故
中興開基
田沼意次

日日是好日

「日日是好日」。この言葉、お寺やお茶室の掛け軸などで見たことはありませんか。「にちにちこれこうにち」と読みます。一見すると「毎日が良い日だ!」と言っているようにも思えますが、禅語としての意味は少し違います。
私たちの暮らしは晴れの日ばかりではありません。風が吹いたり、雨が降ったり、お天気が刻々と変わるように、「好きな人と話ができた」「美味しいご飯を食べた」「ふられてしまった」など、さまざまなことが起こります。
しかし、その一日一日がどんな日でも、二度とない一日であり、とうとい時間であることに変わりはありません。生まれた瞬間から、こうしている今も、私たちはいつかくるそれぞれの終わりに向かって一歩一歩と歩んでいるのです。
自分にとっての好日は待っていてもなかなかやってきません。「今日も良い日であるように」と願い、それぞれが日々精進し好日になるよう一瞬一瞬を精いっぱい大切に生きる。それが、禅にとって大切なことなのです。

歴史

嵩呼山心宗寺(すうこざんしんそうじ)の開創

 長い戦国の時代が終わり告げ、徳川泰平の時代が幕をあけた元和(げんな)元年(1615)。今日の勝林寺は、勅謚禪河弘濟禅師了堂宗歇大和尚(ちょくしぜんがこうさいぜんじりょうどうそうけつだいおしょう)(1587~1664)を開山として、現在の神田明神の南、湯島聖堂の辺りに開創されました。当時は嵩呼山心宗寺と号していたと伝えられています。山号は禅宗の祖である達磨大師が住した中国の嵩山(すうざん)少林寺、寺号は仏心宗(ぶっしんしゅう)とも呼ばれる臨済宗の別称に由来したものです。開山禅師在世中の慶安(けいあん)2年(1649)には、嵩呼山の山号に因んで、萬年山少林寺へと山号寺号を改めています。寺を創建した大檀那である開基は、医師の中川元故居士(徳翁元故居士・?~1627)とされ、幕閣(ばっかく)に願い出て、間口南北38間4尺、奥行東西30間、坪数1160坪の境内地を心宗寺創建のために拝領したと、文政9年(1826)に勝林寺から幕府に提出された「地誌御改調書」(i)は記しています。寛永19~20年(1642~3)に作られた「寛永江戸全図」(ii)から現在の神田明神の南側周辺を見ますと、20数ケ寺の寺院が軒を連ねており、周辺には勝林寺と所縁の深い麟祥院(りんしょういん)・養源寺(ようげんじ)なども同時期に開創され、この寺町の中に了堂禅師による臨済禅布教の拠点が置かれたのでした。開基中川氏について履歴や開山禅師との所縁などは明らかではなく、寛永4年(1627)2月10日に逝去したと伝えられています。開基没後の中川家は後継者に恵まれず、心宗寺との寺檀関係は途絶えることになります。

柳川藩主立花宗茂公(たちばなむねしげ)(iii)の了堂禅師への帰依(きえ)

 こうした開創期の心宗寺を考える上で注目されるのが、開山禅師と筑後国柳川藩109200石の初代藩主立花宗茂公(1567~1643)との厚い師檀(しだん)関係です。豊後国に生まれた宗茂公は、九州の雄としてその名を轟かせ、関ケ原の合戦では西軍に属し、戦後は改易(かいえき)の憂き目にあいました。しかし、戦後それまでの高名な武勇から本多忠勝公の仲介で徳川家康公に召出され、大坂の陣での戦功により柳川の旧領を与えられ、立花家繁栄の基礎を固めました。また秀忠公・家光公からは、戦国の世の有様を語り伝える役として重用されたのです。将軍家の信任が厚い宗茂公は、幕閣(ばっかく)との親交も深く、心宗寺の開創に際し境内地を幕府から拝領したとの伝承の背景には、宗茂公の外護(げご)の力を考える必要があります。了堂禅師と宗茂公との師檀関係の始まりは明らかではありませんが、寛永12年(1635)に柳川で行われた宗茂公の実父高橋紹運(たかはしじょううん)の50回忌には禅師が導師(どうし)として招かれ、その際の法語(ほうご)が残されているほか、宗茂公が毎年丹波焼の壺が贈っていたことなど、禅師への厚い帰依の様子が伝えられています。師檀関係は宗茂公の没する寛永19年(1642)まで続いており、了堂禅師は病の床にあった宗茂公を見舞っておられます。宗茂公は、下谷(現在は練馬区)にあった臨済宗大徳寺派の圓満山廣徳禅寺を葬送の地とされました。立花家の江戸の菩提寺とされた廣徳寺には、慶長16年(1611)に亡くなった宗茂公の実母、宋雲院殿花岳紹春大姉が創建した塔頭(たっちゅう)宋雲院もあり、このことからも心宗寺を巡る宗茂公と了堂禅師関係は、開基・開山の寺檀関係ではなく、個人間の帰依による師檀(しだん)関係であったといえましょう。

開山了堂宗歇禅師の法系

 開山に迎えられた了堂禅師は、勝林寺の大本山で、京都市右京区花園にある正法山妙心寺(しょうほうざんみょうしんじ)の開山、無相大師関山慧玄(むそうだいしかんざんえげん)大和尚(1277~1361)の法系(ほうけい)(教えの流れ)を継承した高僧です。臨済宗では初祖達磨大師から伝わる法系を大変重視しています。無相大師から6代目の孫弟子にあたる雪江宗深(せっこうそうしん)禅師(1408~1486)は4人の優れた御弟子に恵まれ、4派による妙心寺発展の契機となりました。了堂禅師の継承した法系は、4人の内の悟溪宗頓(ごけいそうとん)禅師(1416~1500・東海派(とうかいは)の祖)に遡るもので、玉浦宗珉(ぎょうくほそうみん)禅師(玉浦派の祖)―雪岫宗秀(せっちゅうそうしゅう)禅師―梅室智精(ばいしつちせい)禅師―天心智寛(てんしんちかん)禅師―湛堂祥激(たんどうしょうげき)禅師を経て、了堂禅師の師匠である物外紹播(もつがいじょうばん)禅師(?~1621)へと護持されてきました。

田沼意次公

勝林寺 山門(蓬莱町当時の現文京区向丘)

開山禅師の行状

 この法系を継承することになる開山禅師は、豊臣秀吉公が九州を平定した天正15年(1587)、九州豊前国(現在の大分県)に藤原氏を姓としてお生まれになりました。幼少のころから非凡の神彩を現わしたと伝えられ、11歳の時に出家得度し、九州博多承天寺の鉄舟和尚に就いて8年修学されます。23歳の時に京都の妙心寺に上って以降、諸方の高名な師を歴参(れきさん)し、下野国宇都宮にある興禅寺(こうぜんじ)に到り、同寺の中興開山勅謚播揚大教(ばんようだいきょう)禅師物外紹播大和尚のもとで参禅工夫に骨を折られることになります。大変厳格な物外禅師の教えは、大いに了堂禅師に参禅の志を奮起させ、長い修行の末、遂に東海派下玉浦派(とうかいはかぎょくほは)の法系を継承されたのです。

 開山禅師は『妙心寺史』(iv)において「禅門一宗の革命的大事を挙げんとした一人」と評されるように、江戸前期の妙心寺を代表する学僧の一人でした。物外禅師の下での修行の後、開山禅師は九州薩摩に至り、大陸に渡って仏法を求めようとされます。しかし渡航は果たせず、当時薩摩で栄えていた五山文学の流れを伝える薩南学派(さつなんがくは)の学僧南浦文之(なんぽぶんし)禅師(1555~1620)に就き、6年にわたり経書(けいしょ)の学を究められました。薩摩を離れる開山禅師に、師の文之は「誰か敢えてその右に出る者あらんや」と餞別の辞を贈っています。このほか開山禅師は、奈良興福寺の蔵書を16年の長きにわたって縦覧され、遂には『大蔵経撮要(だいぞうきょうさつよう)』100余巻を著されたのでした。この後開山禅師は本山妙心寺に上られて、第120世の法灯(ほうとう)を継承されることとなります。また開山禅師は、法系の祖である玉浦禅師が開かれた美濃国岐阜の雲黄山大智寺を中興し、晩年には山城国上狛村に弘濟寺を開山し、同寺で慶安4年(1661)3月10日、75歳にて遷化(せんげ)されました。開山禅師の17回忌にあたる延宝5年(1681)3月17日には、四庫の書を渉猟し、三蔵の教智を蘊(たくわ)えられた開山禅師の高徳を追慕された霊元(れいげん)天皇から、禪河弘濟禪師の勅謚号(ちょくしごう)が宣下(せんげ)されたのでした。

 開山禅師が江戸心宗寺に住持された期間は明らかではありませんが、禅師の法系は永く少林寺に伝わり、2世大方祖廣(1624~1698)―3世中華自達(?~1707)―4世澤水祖脱(?~1720)―5世龍睡利見(?~1720)―6世等山義覺(?~1722)―7世大叔祖功(?~1742)―8世大株祖椿(?~1761)へと脈々と継承されました。開山禅師が他山に住されている期間は、弟子により少林寺の法灯は護持されてきたのです。こうした中、享保年間には4・5・6世が3年の間に相次いで遷化する不幸に見舞われ、これを受けて享保9年(1724)8月9日幕府の許可を得て、現在の勝林寺へと寺号を改めています。

少(勝)林寺の檀那家

 帰依(きえ)の志に基づき物心両面で寺を外護する檀那家と、それに酬(むく)いるべく法灯・伽藍を護持し、檀那家先祖の供養と安泰祈願を行う寺院との間の寺檀関係は、寺院永続の上に於いて不可欠のものです。幕府から境内地は拝領したものの、寺院経営の基盤となる領地などを持たなかった勝林寺は、開基中川家の縁を離れて以降、中興開基田沼意次(たぬまおきつぐ)公との縁に結ばれるまでの期間、誰によりその外護がなされてきたのでしょうか。ここで、文化9年(1812)に完成した江戸幕府に仕える大名・旗本の系譜集である『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』(v)から、勝林寺を葬送の地とし、寺檀関係を結んだ諸家を50音順に当主の没年と石高を見てみると、日根野家(寛永3年・7000石)・市野家(元禄14年・100俵)・小佐手家(正徳3年・300俵)・金沢家(寛政8年・100俵)・桑島家(享保13年・200俵)・近藤家(延享3年・―)・田沼家(享保19年・600石)・津田本家(延宝7年・2010石)・津田分家(享保11年・3000石)・津田分家(貞享4年・300石)・東条家(寛永14年・900石)・津田分家(享保15年・500石)・北条家(元禄15年・1100石)・蒔田分家(元禄6年・1800石)・蒔田本家(元文5年・7700石)・蒔田分家(延宝8年・3700石)・村越家(元禄13年・1200石)・柳沢家(正保3年・10200石)・山名分家(天和2年・300俵)・山名分家(延宝3年・300俵)・山名分家(寛永19年・1000石)・旧岩波姓山名家(享保14年・300俵)・山中家(享保7年・500石)・山中家(正保2年・1000石)が確認でき、開山禅師在世中には大名家や大身旗本(たいしんはたもと)の菩提寺となっていたことが確認されます。これら檀家諸家からの外護により、相応の費用を要する2世大方祖廣禅師の妙心寺第261世としての晋山(しんざん)や、延宝5年における開山禅師への謚号奏請(しごうそうせい)が行い得たのでしょう。様々な檀那との寺檀関係が結ばれ、寺門愈々興隆という矢先、江戸に大きな災害が生じました。明暦の大火(1657)です。大火後幕府は大規模な江戸の都市改造を行い、少林寺もその一環として駒込蓬莱町にあった太田備中守下屋敷の一部と屋敷替を行いました。この際に太田家と少林寺間を仲介したが北條安房守正房と津田平左衛門正重であり、両者の子供の代に両家は勝林寺の檀那となっています。このように、少林寺は大名家や複数の旗本家との寺檀家関係を持つ寺院へと発展していくのですが、その中で現在の勝林寺に繋がることになる、大檀那田沼家との縁も結ばれていたのでした。

中興開基田沼家(vi)と勝林寺の伽藍整美

 中興開基田沼家と、勝林寺との寺檀関係は、意次公の父意行(もとゆき)公が享保19年(1734)12月18日に逝去され、勝林寺が代々の葬地とされた時から確認されます。紀州徳川家から吉宗公が将軍家に入られるに際し、意行公もその御供として幕臣となり、晩年には采地(さいち)600石の御小納戸頭取(おこなんどとうどり)として吉宗公の傍に仕えていました。享保17年、意次公は吉宗公にお目見えし、19年には将軍家世嗣(せし)の家重(いえしげ)公附の小姓となりました。意次公は、人々から学問や知識に優れた人という意味の「はつめいの人」と謳(うた)われ、9代家重公からは、意次は正直な人、律義者という意味の「またうとのもの」であるから、よく心を添えて召使うようにと、10代家治公に遺言しています。意次公は御用取次・側用人という奥勤めに併せて、遂には老中にまで上り詰め、石高57000石に達し、位階・官職も従四位下侍従(じゅしいのげじじゅう)に叙任されます。

 こうした檀那田沼家の栄達は、菩提寺勝林寺にも大きな影響を及ぼすこととなりました。明和9年(1772)1月21日、駒込蓬莱町の勝林寺に隣接した島田弾正の下屋敷が内藤新宿にあった意次公の下屋敷と屋敷替えになったのです。意次公が5000石を加増され、老中に任じられたわずか6日後の事でした。老中就任に先立つ明和4年(1767)には国許の遠江相良に築城が始まり、安永8年(1779)には相良城本丸に二重櫓が完成、翌年には城主として初のお国入りを遂げます。翌9年には10代将軍家治公の養子選定に当たり、その功により10000石の加増を受け、田沼政権の確立期と評される時期となります。まさにこの安永9年12月、意次公は勝林寺に隣接する下屋敷の土地260坪を寄進し、政権の首班に座す田沼家の菩提寺に相応しい伽藍の造営に着手したのでした。天明元(1781)年、意次公は家祖以降歴代の霊牌を祀る御霊屋のほか、本堂や門などを次々と新たに建立し、その景観は旧観の10倍するほどであると、田沼家の家老井上伊織が寄進し、第9世量海禅師が撰した新鋳の洪鐘銘は伝えています。勝林寺の造営は、まさに意次公の絶頂期を示す普請でした。こうして面目を一新した勝林寺に参詣した意次公は、住持の量海禅師に満足かと尋ねられたところ、禅師は普請の話は差し置いて、公の将来こそが心配だと語られました。この会話を平戸藩主松浦静山公は伝聞として『甲子夜話』に書き留められ、禅師の見識に敬意を払っておられます。伽藍の大修築を成し遂げた大檀那に対して、ただ追従ではなく、むしろ誡めの語を呈したその姿は、まさに開山禅師以来の禅僧の面目躍如たるものがあるといえましょう。量海禅師の先見に違わず、嗣子意知(おきとも)公の遭難、将軍家治公の薨去(こうきょ)と共に、意次公は政権の中枢から去ることとなり、蟄居(ちっきょ)を経て天明8年7月24日70歳で逝去、隆興院殿耆山良英大居士として勝林寺に葬られました。

幕末から現代へ

 意次公によって整備された勝林寺の境内の様子を現在に伝えるのは、文政9年(1826)に幕府に呈された「地誌御改調書」と、それをまとめた『御府内備考』(vii)です。境内図を見ると、西面した境内の本堂の背後の中心線上に田沼家の墓所が配置され、田沼家専用の位牌堂も設けられていたことが分ります。また天龍寺の桂洲禅師の筆による拈華室の額が掛けられた方丈には、本尊として釈迦如来の坐像の他、達磨大師坐像、普庵(ふあん)禅師坐像が安置され、位牌堂には本尊の地蔵立像と観音坐像が安置されていました。表門には筆者不詳ながら謹厳な楷書で萬年山と書かれた山号額が掛げられていました。表門を入った右手には、八尺四方の鐘楼が設けられ、門の左手には一間四方で、大弁財尊天・稲荷大明神・秋葉大権現を祀った鎮守堂が配され、境内の北側に、墓所が設けられていました。

 明治40年(1907)本郷通りの拡幅に伴い、墓地のみが染井に移転することとなり、昭和15年(1940)には道路新設に伴い、寺基を現在の染井に移すに至りました。近代の勝林寺には一時青鞜社(せいとうしゃ)が置かれたほか、著名な芸術家が訪れるなど、近代の芸術文化にも関わりがあります。また、宗派においては埼玉県新座市野火止(のびとめ)の金鳳山平林寺(きんぽうざんへいりんじ)住持窪田藍溪老師(くぼたらんけいろうし)との法縁も結ばれ、平林寺に専門道場が開単されると、第2代臨済宗管長を務められた峯尾大休(みねおたいきゅう)老師、白水敬山(しろうずけいざん)老師・糸原圓應(いとはらえんおう)老師・野々村玄龍(ののむらげんりょう)老師と代々の老師のもとで勝林寺歴代住持は参禅修行を積むことになります。

 勝林寺の歴史の中で惜しむべきは、戦争に際しての洪鐘(こうしょう)の供出、昭和20年(1945)の戦災であり、開山禅師の頂相や『大蔵経撮要』、中興開基田沼意次公の画像や自筆和歌懐紙など貴重な寺宝の数々が失われたことでした。しかしながら昭和28年には見事に本堂が再建され、戦後復興の大きな力となりました。

 了堂禅師の開山以来400余年の月日を重ねた勝林寺は、これからも人々の縁を結ぶ拠点として、長く檀信徒の方々と共に法灯を護っていくこととなります。

  • 『駒込寺院書上 一』国立国会図書館蔵
  • 之潮編集部編『寛永江戸全図』之潮 2007
    臼杵市立臼杵図書館蔵旧稲葉家資料所収
  • 中野等『立花宗茂』人物叢書227 吉川弘文館 2001
  • 川上孤山著・荻須順道補述『増補 妙心寺史』思文閣出版1975
  • 『寛政重修諸家譜』1~22(復刻) 続群書類従完成会 1917-20
  • 藤田覚『田沼意次』ミネルヴァ書房 2007
  • 『御府内寺社備考』4 名著出版 1986

学習院大学非常勤講師 田中潤

本尊 木造釈迦如来坐像

勝林寺のご本尊 木造釈迦如来坐像は、関東でも一番古いと言われる、平安前期9世紀のもので、豊島区の重要文化財に指定されております。像高50.5cmの木造で、頭上に肉髻(にっけい)を造り、螺髪(らほつ)を付け、体には衲衣(のうえ)と裳(も)を着けて、左足を上にして結跏趺坐(けっかふざ)しておられます。右手は上に上げた「施無畏印(せむいいん)」、左手は膝の上に置いた「与願印(よがんいん)」と呼ばれる印相を結んでおられます。これらは、お釈迦様の通例のお姿です。